東京ジオ鹿大学地理学科事務室

都市の観察の投稿が多いです。Twitterを中心に活動中

ジオ鹿飯田橋の観察① 飯田橋に牧場の痕跡!?

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都市の観察は中心点から半径300m以内を観察する企画です.台地と低地の中間地域の「飯田橋」が今回の観察フィールドです.(基盤地図情報の数値標高データ,淡色地理院地図を使用)

 

こんにちはジオ鹿です。
先日、飯田橋「都市の観察」を行いました.

その時の模様をまとめていきたいと思います.


飯田橋ってどんな街か地図で推測してみよう!

まずは参加者の皆さんに地図を見ていただいて,どんな街・風景が広がっているのかを読み解いてもらいました.

 

なるほど.飯田橋は「武蔵野台地」の縁とと神田川日本橋川によって形成された「沖積低地」の間に街が広がっているようです.

また,この地域では再開発事業が積極的に行われていそうですね.
低地側では大きな施設の跡地再開発、台地側では昔ながらの街並みを再開発していそうだということが見えてきました.

 

たしかに,東京のど真ん中に位置する飯田橋エリアはビジネス拠点として利用価値が高そうです.飯田橋駅の改良工事をはじめ,周辺地域の再開発がどんどん進められています.

www.nomu.com

 

 

飯田橋を観察してみる

では早速,そんな飯田橋の街を歩いてみましょう!

まずははじめに,今回「ランダムにプロットされた地点の風景」をパノラマで観察してみましょう.

目白通り沿いの場所が選ばれました.

今回はこの地点から半径300m以内を散策していきたいと思います. 

 

まずは,九段下交差点から目白通り沿いを飯田橋駅方面へ移動します.

 

なるほど,この地域は大きいビルと古くて低層な建物が混在する地域のようです.
よくよく観察するとかなり古い建物も多くありました.

 

んん!?破壊したはずの「アレ」があるぞ???

 

よくわからない人はポプテピピックという作品を読むといいでしょう.

最近アニメ化もされましたね.

 ポプテピピック最終話では竹書房は破壊されていましたが,目白通りも周りの建物も甚大な被害を受けているでしょう.

mangalifewin.takeshobo.co.jp

 

飯田橋駅には「竹書房」の広告が出ているのですが,これがなかなかシュールでして・・・

nlab.itmedia.co.jp

 

 

明治時代の地図を観察

竹書房の近くの道端に「1897年」飯田橋周辺の地図がありました.

 よくよく観察してみると,飯田橋の台地側には牧場が広がっていたようですね.

 北辰社牧場...
どんなものだったのでしょう? 

 

「北辰社」,「榎本武楊」・・・

気になる単語が並びますが,これらをひも解くと見えてくるものがありそうですね.

 

まずは「榎本武楊」についてネット上に掲載されているデジタル大辞泉で確認してみましょう.

えのもと‐たけあき【榎本武揚

 
[1836~1908]政治家。通称釜次郎。江戸の人。オランダに留学。帰国後、幕府の海軍奉行となる。戊辰(ぼしん)戦争では箱館五稜郭(ごりょうかく)にこもり、政府軍と交戦するが降伏。特赦され、北海道開拓使となる。のち、ロシアとの間で樺太(からふと)・千島交換条約を締結。文部外務などの各大臣を歴任。
引用元:

kotobank.jp

 

幕府側の人間として,五稜郭の戦いで最前線で活躍されたのですね!

その後政府の要人になった経歴ってなかなか珍しいのではないでしょうか?

(ジオ鹿は歴史にめっぽう弱いのでどなたか補足を・・・)

 

次に,北辰社牧場に関する記述を整理してみます.

 

明治維新後,都心にある荒廃した武家屋敷が武士の失業対策のとして,格安で払い下げられ,東京都心では農業や酪農が営まれるようになった.

・都心で酪農が盛んだった要因として,以下のことが考えられる.

  →牛乳の一大消費地に近いこと

  →輸送手段が整備されていなかったこと

  →保存手段がなく毎日の搬送が欠かせなかったこと

  →乳牛の飼料である「粕」の入手が容易だったこと

・その中で,榎本武楊は明治維新の混乱の中,旧幕臣子弟のために「育英黌農業科」や「北辰社牧場」などを作った.

 ・道沿いの「北辰社牧場」の石碑によると,「最盛期には乳牛が四、五十頭もいて新しい飲料、牛乳を提供していました。」という記述があり,北辰社牧場の規模がうかがい知れる.

・また,「育英黌農業科」の流れは現在の「東京農業大学」に引き継がれているようで,大学HPには「榎本武楊」の記述をみることができる.

飯田橋駅前に「東京農業大学開校の地」という石碑が建てられている.その石碑には,甲武鉄道の建設工事の関係で移転したという記述がある.

 

参考URL

東京牛乳物語 / 東京牛乳

アイ・マイ・ミー:北辰社牧場,現:千代田区飯田橋

東京農業大学のあゆみ | 東京農業大学

東京農業大学開校の地 - 発祥の地コレクション

 

なるほど,明治維新のときに都内にあった武家屋敷の跡地を利用して,武士の失業対策として牧場が開設されたのですね!

冷蔵庫や自動車などが普及していなかった当時は,消費地に近く,輸送しやすい都心に立地していた方が都合がよいということは,現代社会においては忘れがちな視点ですよね.

飯田橋駅を利用するときに東京農業大学開校の地」の碑はよく見ていたのですが,そういうつながりがあったのですねぇ!

 

こんな「境界線」もあるんだ!

道を歩いている途中でこんなものを見つけました

 

このような表示をしないと,余計なところまで工事をしてしまったりとかいろいろな弊害があるのでしょうか?

境界線マニアの私としてはかなりメシウマな発見でした.

 

 

いざ,「東京大神宮」へ!

古い地形図を確認すると,等高線に対して直角ではなく,少し斜めに道ができていますね.

傾斜を緩和する一手法の一つですよね.

ただ,古い地図をよく見ると,東京大神宮のある場所に神社マークがありません.

 ここで,東京大神宮について調べてみましょう.

 

東京大神宮公式HPの文章をそのまま引用します.

御由緒

 江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。
 現在広く行われている神前結婚式は、当社の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。

引用:

www.tokyodaijingu.or.jp

 

なんと!現在の場所に東京大神宮ができたのは昭和3年(1928年)」のことのようです.

関東大震災後にできたものなのですね!そんなに新しいとは思いませんでした.

 

縁結びを強調していますが,公式HPに「なぜ縁結び」なのかの記載がありませんね・・・

一方で「神前結婚式創始の神社」として魅力を発信しているようです.

 

ここで疑問を投げかけるのがこのツイート

 

 なるほどなるほど勉強になります!永太郎先生!

たしかに「明治33年」で「伝統」というのもなかなか不思議ですが...

 

大正天皇がまだ皇太子だった時代の結婚式が最初の神前結婚式とされていて,それ以降に一般大衆向けの神前結婚式が展開されたという記述をそのまま鵜呑みにするのであれば,当時は物珍しかったのでしょうね.

 

 

・・・それにしても「#ジオ鹿飯田橋の観察」に参加していただいた皆さん,「東京大神宮」に関して観察しなさすぎじゃないですか???

誰も参拝していませんでしたし,縁結びの神様に何か恨みがあるのでしょうか??(ブーメラン)

 

 

台地の地形を感じる

気を取り直して,東京大神宮のあたりの裏通りをいろいろ散策してみます.

中央向かって右側の建物.

右側が登坂で左側が下り坂になっています.

飯田橋の地形の複雑さを端的に表現した風景ですねぇ

 

 武蔵野台地の縁に相当するので,段丘面があってもおかしくないかなと思います.

 M1面とM2面くらい?に相当するのかなという素人的な考えをもって見ましたがどうなんでしょう?(大学時代の専門が地形学だったことは秘密です)

 

地形を感じるというところでは,階段の公道があることも特徴的かなと思われます.

 

再開発の境界線

再開発が行われているエリアと行われていないエリアの差をすごく感じる風景が飯田橋にはよく見られます.

 

そしてこの写真の左側のマンションの植え込みにこんなものが...

 この灯篭は一体なんでしょうか?

何か理由があってどかせなかったものなんでしょうか?

しかしこの灯篭が一つポツンとあるだけなのでさっぱり理由が分からないですね・・・・

 

 

 

前半戦はここまでです!

後半戦もなかなかボリュームがたっぷりでうまくまとめられるか不安ですが頑張ってまとめます!

 

ではでは~