ジオ鹿飯田橋の観察② 飯田橋と大学と紙と
前回に引き続き,飯田橋の観察の報告をまとめます.
前回は,東京大神宮周辺の裏通りを観察していました.
再び目白通りに戻ります.
アパホテルの意地なのか、白いビルの意地なのか。
— 佐藤 匠 (@S1219taku) June 1, 2019
#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/MgEBla29ln
どうでもいいけどアパ写りすぎやろ問題(別々のですよ) #ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/UMgZpPw26o
— 網 (@jbj12o) June 1, 2019
観察対象範囲内に3つもアパホテルがありました.
東京都区政会館を観察
明治のリバティタワーぽいな?#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/CpC8VrZ3UT
— ジオ鹿さん (@GeoDeer9215c) June 1, 2019
明治大学のリバティータワーに似てません??
どうでしょうか??
・・・色だけかな???
明治大学のリバティータワーみたいな建物が建っている場所,実は「日本大学」と「國學院大学」の発祥の地のようですね.
國學院と日本大学発祥の地#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/PJQlxlQ3wp
— ジオ鹿さん (@GeoDeer9215c) June 1, 2019
この地にはもともと「皇典講究所」がありました.
皇典講究所は明治15年(1882)8月,明治政府の神道政策の一環として,古典(国典)研究と神官を養成する機関として設立されたものです.
皇典講究所を語るにあたって一番重要な人物がおり,それが「山田顕義」です.
山田顕義について,ネット上の文献を引用してみましょう
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
ここで,山田と日本大学,國學院大學の関係を整理してみることにします.
山田は,1882年(明治15年)に内務卿として皇典講究所の創立に大きく関与した.
その背景には,内務省の内部で神道界の再編成しようと模索する動きがあり,その流れで山田は,政教分離思想を取り入れた純粋な国典研究と,神官養成を目的とした講典講究所の設立を認可した.
その後,1890年にこの講典講究所を母体として,国史・国文・国法を攻究する教育機関が設立され,「國學院大學」が設立された.
山田は内閣制度発足後の1885年に,初代司法大臣に任命され,1889年になると,司法大臣を兼任しながら講典講究所の所長となった.
この当時の法学教育に目を向けると,近代法典を体系的に享受する教育機関の設置が求められるようになり,フランス系法学に基づいた東京法学社(現在の法政大学)や明治法律学校(現在の明治大学),イギリス系法学に基づいた英吉利法律学校(現在の中央大学)といった私学法律学校が誕生していった.
しかしながら,これらの法律学校はそれぞれがモデルとする外国法に基づいた法学教育が行われており,日本の歴史や文化から乖離したものであったため,山田は現実に即した日本法学の研究が重要だと考えていたが,司法大臣の立場上,なかなか実行に移せない状況であった.
一方そのころ,帝国大学の宮崎道三郎を中心とする若手法律学者の間で日本の歴史,文化,伝統に即した日本の法律を学ぶ法律学校が必要であるという考えにより,「日本法律学校」の設立が計画されていた.
この計画を知った山田は,講典講究所の所長である立場を利用して全面支援を行うことにして,講典講究所を貸しだした.
その結果,1889年に日本大学の前身となる「日本法律学校」が設立された.
参考URL
このように,山田は日本の国の中枢にいながら,「講典講究所」の設立と運営に強くい関わり,日本の法学研究を行う教育機関の設立に大きく寄与したのです.
それにしても山田は伊藤博文などと一緒に活躍していたのにも関わらず,歴史の教科書でなかなか出てこないのがかわいそうですよね...
ここで改めて対象地域の古い地図と現在の地図で比較してみます.
現在の地図は,基盤地図情報の数値標高データと,地理院地図のタイルを使用しています.
1883年の地図は「東京測量図原図」と呼ばれる地図です.
現在東京大神宮が建っている場所をみてみると,「山田邸」と書かれています.
どうやら,この「山田邸」の持ち主は「山田顕義」らしいのです.
(参考:日本大学HP)
東京大神宮については前回の記事で書きましたが,1880年に日比谷で創建された東京大神宮の前身,日比谷大神宮は,関東大震災をきっかけに1928年に現在の場所に移転してきました.
ちなみに日比谷の東京大神宮は大隈重信邸の跡地のようです.
移転先の土地は,講典講究所の設立にも関わった「山田顕義」が所有していた土地と考えるとなかなか面白いですよね.当時の政治的な背景などを強く感じます.
アイガーデンエアを観察
東京都区政会館からさらに東へいきますと,大きなビルがたくさん建っているエリアにたどり着きました.
「アイガーデンエア」と名付けられたこのエリアは2003年頃の竣工だそうです.
なお土曜日のアイガーデンテラス(オフィスビル・ホテル・高層マンション・飲食街から成る複合施設。2003年竣工)は、個人的にめっちゃ三井感があった #ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/cMrHR3oW25
— 網 (@jbj12o) June 2, 2019
いかにも「再開発されたエリア」感漂うこのエリアに潜入して,再開発前のなにか痕跡がないか観察してみます.
飯田町駅跡地の再開発エリア西端から延びる、レール…?
— 網 (@jbj12o) June 2, 2019
これをたどっていくと、甲武鉄道始点のモニュメントが。設置箇所は厳密には異なるようだけど、当時のレールだそう(下記参照)
1枚目の撮影場所が2枚目「ココ」
アイガーデンエア(旧飯田町駅跡) https://t.co/89FeJGiK5c
#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/e65rIVbWXM
おぉ!さっそく痕跡が見つかりました!
レールが埋め込んでありますね!
このレールをたどっていくと・・・
甲武鉄道0キロポスト#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/h3Xco2mXqe
— 10月うさぎ (@Octoberabbit) June 1, 2019
なるほど「0㎞ポスト」のモニュメントがあるのですね!
ここで,「甲武鉄道」と「飯田町駅」,「飯田町紙流通センター」のことについて振り返ってみましょう.
「甲武鉄道」は現在の「JR中央線」の原型を作り上げた鉄道で,1889年に「新宿~立川」の間で開業した.
その後,1895年になると現在のアイガーデンエアがある場所にかつてあった「飯田町駅」まで延伸してきた.
1933年になると, 旅客運用を終了し,貨物運用を中心に行われるようになり,その後 1972年になると「飯田町紙流通センター株式会社」が開設され,同時に飯田町駅構内に紙関係専用の倉庫を開設した.この倉庫が都心の紙の流通拠点になった.
1999年になると貨物運用が終了し,「飯田町駅」は完全に運用が終了し,
飯田町紙流通センターは新座貨物ターミナル駅と墨田川駅に移転した.
2014年に「飯田橋紙流通センター」は同じJR貨物グループの「日本運輸倉庫」と合併し,名前を消すことになった.
参考URL
神田川沿いにある「飯田町紙流通センター」が なぜこの地にできたのかを推察してみましょう.
神田川をさらに上流へさかのぼると「凸版印刷」や「大日本印刷の工場」をはじめとした印刷工場,「音羽グループ」と呼ばれる「講談社」をはじめとした出版社グループが集積しており,神田川沿いの地域は「紙産業の集積地」だったといえそうです.
そんな紙産業の集積地であった神田川と鉄道の結節点にあったのが「飯田町」の貨物駅であり,全国各地へ紙媒体を運ぶのに非常に適した拠点であったと考えられます.
飯田町紙流通センターと飯田町の様子の動画がYouTubeにあがっていましたので,みなさんご覧ください!
ちなみに,「飯田町駅」開設以前は「讃岐高松藩上屋敷」,「砲兵水廠附属生徒舎」などがあったようです.
讃岐高松藩上屋敷跡は、
— 10月うさぎ (@Octoberabbit) June 2, 2019
砲兵水廠附属生徒舎となり、
飯田町紙流通センターを経て、
今はアイガーデンエアとなり、高層ビルが立ち並んでいる。
ただ砲兵水廠附属生徒舎や、その後については調べてもあまり出てこない…#ジオ鹿飯田橋の観察 pic.twitter.com/BkuxyijU1N
調べ始めると終わらなくなりそうなので,興味がある人はぜひ調べてみてください!
飯田橋と大学と紙と
いかがでしたか?
飯田橋という街は,「台地と低地」という2つの特徴を有した地形に立地しています.
また,川と鉄道が交差する地域だったからこそ,物流の拠点だったといえそうですね.
日本に古くから存在する大学の歴史をたどると,当時の国の動きなどと連動していることから,調べてみると大変興味深いです.
以前のブログでも述べましたが,「地理学は空間内の相互関係を解明する学問」と私は考えています.
この考え方は飯田橋も例外ではなく,講典講究所や神社,当時の政府,神田川,甲武鉄道,牧場,武家屋敷,大学の歴史といった様々な要素が複雑に絡み合って現在の飯田橋が構成されているのです.
みなさんも身近な地域を「都市の観察」することによって,この奥深い世界を体験してみてはいかがでしょうか?